Locomoロゴ
イベント登録バナー
Locomoサポーター広告


6で読めます

2024年1月31日(水)

ワンマン宰相・吉田茂に出会う(鵠MAI)

アイキャッチ画像

首都・東京から近く、温暖な気候の湘南エリアには明治以降、多くの政財界人が別荘を構えました。
大磯町は、その代表格です。1885年、松本順・陸軍軍医総監が日本初の海水浴場を開設したのが、その契機とされ、伊藤博文、西園寺公望、大隈重信ら首相経験者のほか、政財界の有力者が集まります。
最盛期には200軒もの別荘が建ち並んでいたと言います。
その歴史的別荘地に本邸を構えたのが、吉田茂元首相です。
国会での野党議員の質問に思わず、「バカヤロー」と暴言を吐いたせいで、衆院・解散に追い込まれた「バカヤロー解散」(1953年)が有名です。
その一方で、吉田は敗戦国の日本が国際社会に再デビューする「サンフランシスコ講和条約」の締結など数々の実績を残しています。
首相を5期務め、現在に至る戦後政治の礎を築き上げました。
吉田の門人には、いずれも首相になった佐藤栄作、池田勇人、田中角栄らがおり、その系譜は保守本流と呼ばれます。
現在の岸田文雄首相は池田元首相が築いた派閥「宏池会」の出身。
麻生太郎元首相は吉田の孫に当たります。
吉田茂邸は2009年、火災で焼失しましたが、17年に当時の姿に忠実に復元され、現代史を学ぶ観光施設「旧吉田茂邸」として生まれ変わりました。
今回は今年夏に旧吉田茂邸の学芸員に就任した鷹野真子さん(27)に話を聞きます。

学芸員の鷹野真子さん

【プロフィール】
たかの・まこ 1996年山梨県生まれ。
法政大院修了後、大磯町の旧吉田茂邸のアルバイトを経て、2023年7月、学芸員に。
日本の戦後政治の礎を築いたワンマン宰相、吉田茂と向き合う日々を過ごしている。
多くの政財界人が愛した大磯の自然・風土と近現代史の関わりも研究の対象。
学生時代は明治維新で官軍・賊軍に二分された武家勢力のその後を北海道開拓の視点から紐解き、勝者・敗者の二項対立を超えた歴史のダイナミズムを追求した。

旧吉田茂邸の全景。四季の移ろいを伝える植栽が施されている

旧吉田茂邸の見どころは?


吉田茂邸は1884年、養父の吉田健三が土地を購入し、別荘を建てたのが始まりです。
松本順が海水浴場を開設する前の年ですから、かなり早い時期ですね。
吉田茂は1945年から本邸とし、亡くなるまで過ごします。
別荘ではなく、本邸というのが肝要です。生活の場だったのです。
現在の施設は47年ごろに建てられた応接間棟と、昭和30年代に近代数寄屋建築で有名な吉田五十八が設計した新館をメインに復元したものです。
家人らが暮らした棟も礎石などが残されています。
吉田は富士山が大好きで、随所に富士見のための工夫がされています。
新館2階の「金の間」の大きなガラス窓もその一つです。
建築当時、「こんなに大きいガラスを入れたら暑くて大変」と施工業者に言われたようですが、吉田は「それで良い」と譲らなかったそうです。
復元施設でも夏は暑くて大変です。
金の間の隣は寝室にしていた「銀の間」です。ちらも富士山が望めます。
吉田はここで最後を迎えるのですが、死の直前にも「富士山が見たい」と言ったそうです。
新館は元々、海外要人の迎賓宿泊棟として構想されました。自邸に海外の要人を招き、富士山、相模湾の眺望を楽しんでもらい、時間を忘れて話をしたかったのだと思いますね。西ドイツのアデナウアー元首相らが招かれていますが、結局、海外の賓客を宿泊させるという、吉田の願いは実現せず、自分が晩年を過ごすことになります。
防犯対策もおもしろいですね。随所に隠し扉があり、非常用の脱出路が確保されています。襲撃の危険に備えていたのです。
いつの時代でも政治家はやはり身の危険を伴うということでしょうね。

富士山の眺望を楽しむための大きなガラスが特徴だ

吉田茂が「富士山が見たい」と語って永眠した「銀の間」

日常生活から考察する吉田茂について


吉田語録に「良いものは良い」というのがあります。
スーツは英国ロンドン、サビル・ロウの老舗「ヘンリー・プール」しか着ないとか、物への執着があったように言われますが、その核心は「常により良いものを求める心」にあったんじゃないかと感じます。
当時の日本が置かれた状況とどこかでシンクロしているように思えるのです。
このブランド以外は駄目だというのじゃなくて、より良いもの、ひいては、より良い社会への希求があったのだと思います。
世界に通用する、世界に愛される物を日本も作っていかなきゃいけないんだという信念みたいなものですね。
例えば、本邸の浴槽は舟の形なのですが、わざわざ、専門の大工を招いて作らせています。
陶製の洋風バスではないんですね。若い頃は漢籍も学んでいますから、単なる洋風かぶれではなく、世の中の良いものをきちんと選びたいという審美眼、「芯」の部分があった人だと思います。
ですから、白洲次郎に勧められたヘンリー・プールより、いいスーツがあれば、それを選んでいたかも知れないなあと思ったりもしますね。
旧吉田茂邸では生前、吉田が使っていた小物を少しずつ集めています。
今度、当時のシェービングブラシを寄贈していただけることになりました。
吉田が生活していた当時の趣、空気感に迫り、その人物像にもっと迫ってみたいです。

政財界の要人らを迎えた応接室「楓の間」。緊急脱出路が付いている

海外の賓客らをもてなした豪華な食堂「ローズルーム」

ローズルームで訪問者を迎える吉田茂の等身大写真

歴史研究の醍醐味とは


歴史に興味を持ったのは高校時代です。
NHKの大河ドラマ「八重の桜」がきっかけでした。
八重の最初の夫で、川崎尚之助という人物がいるのですが、従来の評価は「軽佻浮薄で、八重にふさわしくない」というものでした。
ところが、大河ドラマでは、新資料と綿密な研究に基づき、蘭学や化学を学んだ俊英だったことを明らにしていきます。
歴史研究の成果で、人物像も史実の評価も大きく変わる。歴史って変わるんだな、おもしろいなと思いました。

サンフランシスコ講和条約を記念して築造した「兜門」。国登録有形文化財。

相模湾を見下ろす丘の上に米国・サンフランシスコの方角を向いて立つ吉田茂の銅像

敷地内に立つ「七賢堂」。かつて、大磯に別荘を構えた伊藤博文が大久保利通、岩倉具視、木戸孝允、三条実美らを祀った「4賢堂」を吉田茂が自邸に移した。現在は、伊藤、西園寺公望、吉田を含めた7人を祀っている。

今後やってみたいことは?


公共施設ですから、多くの方に「おもしろいね」と興味を持っていただけるようにしないといけません。
旧吉田茂邸の展示室に「バカヤロー」の文字をあしらったモニュメントがあるんですが、吉田と言えば、やはり、「バカヤロー解散」です。
これを分かりやすく紹介できないかなと考えています。
解散は1953年ですから、吉田はここで暮らしていました。吉田の私生活と結びつけながら、当時の心境に少しでも近づけるような工夫ができないか、記録の羅列ではない、大磯ならではの展示をしてみたいと考えています。

バカヤローの文字をあしらったモニュメント。ウイットに富んでいた吉田茂もあの世で苦笑い?

この記事を書いた人
アイキャッチ画像
    因幡 健悦(毎日新聞)

    1959年生まれ。横浜支局を振り出しに主に政治取材を担当。
    現在は湘南エリアを中心に神奈川の社会・文化を情報発信している。

    いいね!を送る
    見やすさ・読みやすさを重視して
    地域に関係のない広告を表示していません。
    Locomoのインタビュー記事や
    動画が「いいね!」と思ったら、
    ぜひお気持ちいただけると
    嬉しいです(100円〜)。

    地域の方々の「想い」や「ストーリー」
    を発信する活動をしています。
    これまでの総応援人数: 171
    目指せ総応援人数1000人!
    地域みんながライター!
    あなたの好きなお店、人をインタビューして
    記事にしてみませんか?