「おばあちゃんち」が、街のみんなの場所になるまで。鵠沼の登録有形文化財「松の杜くげぬま」尾日向梨沙さん

江ノ電・鵠沼駅から少し歩くと、背の高いクロマツの向こうに、赤い瓦屋根の洋館が見えてきます。1928年(昭和3年)に建てられ、1948年からは尾日向梨沙さんの祖父が暮らしてきた家。2018年に洋館と和館が国の登録有形文化財となり、いまは「松の杜(もり)くげぬま」という名前で、ヨガや音楽教室、マルシェなどにほぼ毎日使われています。
祖父母の「おばあちゃんち」は、どうして街に開かれた場所になったのか。実は筆者も少し前まで、この家の一室に住まわせてもらっていた“元住人”。梨沙さんにあらためて話を聞きました。

クロマツに囲まれた洋館。赤褐色のフランス瓦が目印です
子どもは入れなかった「大人の部屋」
取材をしたのは、洋館の応接間。赤い革張りのソファに、庭の緑が透ける大きな窓。普段は貸し出していない、この家でいちばん特別な部屋です。
ところが梨沙さんにとって、ここは子どもの頃、足を踏み入れてはいけない場所だったそうです。
「祖父母がお客さんを招く、大人の空間だったんです。大事なものが置いてあって、子どもは入っちゃいけない。ちょっと怖いくらいの部屋でした」

子どもの頃は近寄れなかった応接間で
東京で育った梨沙さんが鵠沼に来るのは、幼い頃は季節に一度ほど。祖父は梨沙さんが小学3年生のときに88歳で亡くなりましたが、ソファの端の“定位置”でパイプをくわえていた姿は、今もよく覚えているといいます。

鯉に餌をあげたりした庭の池
高校2年生でボディボードを始めてからは、「夏といえば鵠沼」。大学時代は海まで歩いて行ける祖母の家に友達を連れてきては、多いときで15人ほどが合宿のように泊まり込みました。昼は海へ、夜は家にあった自動雀卓を囲んで朝まで麻雀です。
「家じゅう砂だらけになって、お風呂場が詰まったこともありました(笑)。祖母もさすがに困った顔をしていましたけど、庭でバーベキューをすると必ず参加してくれて。人が来るのが好きな家だったんです」

今も続く庭でのバーベキュー
雑誌の中の暮らしと、蛍光灯の下の自分
仕事は、雑誌の編集者。中学の卒業文集に書いたほどの、子どもの頃からの夢です。スキー場ガイドブックのデータ入力のアルバイトから出版社に入り、スキー専門誌の編集部へ。
「行ったことのない場所の写真と記事を見て、ここに行きたい!って胸が躍るのが好きでした。それに編集者になれば、仕事でその場所に行けるでしょう(笑)」
20代で鵠沼に移り住んだ梨沙さんは、祖母の家の2階を仕事場にし、やがて二人で暮らすように。毎週火曜日は、藤沢の麻雀教室に通う祖母を車で送るのが習慣でした。
32歳で編集長を任されました。冬は5か月ほど雪山を飛び回り、夏は取材した記事をまとめるために、会社に泊まり込む日々が続きました。

アメリカのスキー場への取材中の一コマ。中央は星野佳路さん
取材先の雪国で出会うのは、自然のものを食べ、いろんな意味で豊かに暮らす人たち。
「誌面には綺麗な写真を並べているのに、自分は一日中蛍光灯の下で、3食コンビニのお弁当を食べて、徹夜ばかり。もう少し人間らしい暮らしがしたい、という気持ちがどんどん強くなっていきました」
2014年の暮れに会社を辞めてフリーランスに。翌年には北海道のカメラマンと組んで、スノーカルチャー誌『Stuben Magazine』を世に出します。時間にゆとりが生まれ、この家での何気ない暮らしを、ようやく楽しめるようになりました。

雪国の暮らしやスキー文化をテーマにした『Stuben Magazine』
「壊す」という選択肢は、はじめからなかった
祖母が高齢になり、梨沙さんの父が相続について考え始めたのは2012年頃のこと。広い敷地を受け継ぐには、重い相続税がかかります。敷地にアパートを建てる、土地を手放す……そんな相続対策の提案を手に、スーツ姿の営業担当者がこの応接間に何度もやってきました。
「この家が好きすぎて、壊すなんてそもそも考えたこともなかったんです。鵠沼に関わるようになってからの20年でも、大きな家が更地になって、松の木が切られていくのをたくさん見てきました。うちだけは、それは絶対にしちゃいけないと思っていました」
一方で、残す方法をまわりに相談すると、いろんな人がアイデアを出し、「お金はないけど、手伝うよ」と声をかけてくれたのです。
「そっちの方が、ずっと楽しそうだったんですよね。本当に、純粋に」

「鵠沼の緑と景観を守る会」有志によるお庭清掃
そこで動き出したのが、国の登録有形文化財への登録でした。登録されれば、相続税の負担も軽くなります。後押ししてくれたのは、地域団体「鵠沼の緑と景観を守る会」。もとは鵠沼駅近くのお屋敷・渡辺邸を残そうと生まれた会で、渡辺邸が解体されたあとも「鵠沼らしい風景を守ろう」と活動を続けていました。祖母がひとりで暮らしていた頃から、月に一度この家の庭掃除に来てくれていたのも、この会の人たちです。
2016年12月27日。文化庁の担当者がこの家の審査に訪れた、まさにその日に、梨沙さんの父は亡くなりました。登録の決定を、見届けることはできませんでした。
2018年3月、洋館と和館はそろって国の登録有形文化財に。その年の11月には、祖母も旅立ちました。

2018年4月に行われた、文化財登録プレートの授与式。鈴木市長と
開かずの扉を開けて
受け継いだ家は、思い描いていたほど甘くはありませんでした。開かずの扉のような部屋がいくつもあり、庭はすっかりジャングル状態。雨漏りで、天井がまるごと落ちてきた部屋もあったそうです。片付けや草刈りには、パートナーも力を貸してくれました。

不用品の片付けの様子

雨漏りの被害のあった応接間の修繕の様子
早いうちに梨沙さんが開いたのが、ご近所に向けた見学会です。
「祖母は地域でよく知られた人でした。その祖母が亡くなって、急に孫が何かを始めた、と思われるのは嫌だったんです。まずはご近所との風通しを良くしておきたくて」
地元のニコニコ自治会が協力し、周辺世帯にアンケートを配ると、150通ほどの回答が。複数回行った見学会には、合わせて150〜200人が足を運びました。「一度入ってみたかった」「昔、おばあさまにお世話になって」という声もたくさん届きました。
「みんな、こんなに応援してくれるんだって。それが大きな後押しになって、残す方向でよかったんだと思えました」

庭に面した10畳の和室
2019年、この家は「松の杜くげぬま」として新しく歩き始めます。名前の候補は20〜30個。地名の「くげぬま」と「松」は必ず入れたいと考え、最後に選んだのが、「森」ではなく「杜」という字でした。
「“鎮守の杜”のように、大切な建物があって、そのまわりを森が囲んでいる。みんなで大事にしていく場所にしたかったんです。ただの森じゃなく、人の気配のある杜、というイメージですね」
人が、人を呼ぶ家
最初の利用は、ヨガ講師によるレッスンでした。はじめは集客も梨沙さん自ら。ヨガだけでは人が集まらないかもしれないと、毎月シェフを替えたランチ会を組み合わせて好評。また、陶芸のワークショップや野菜の販売会も開きました。
「振り返ってみると、私から声をかけたのはヨガと野菜の販売くらいなんです。あとは参加してくれた方が利用者になったり、噂を聞いた方が『私も使いたい』と来てくれたりして、自然と広がっていきました」
実は松の杜が始まった2019年、梨沙さんはもうひとつの準備を進めていました。長野県飯山市への移住です。編集者として雪国の暮らしを取材し続け、本づくりのためにニセコで1か月暮らしたこともある梨沙さん。いつしか、自分も自然に寄り添った暮らしがしたいと思うようになっていたといいます。
「鵠沼に住んで、少し近づいた気はしたんです。でも、やっぱり山とは違う。こっちの人が朝サーフィンに行くみたいに、毎朝スキーがしたかったんです(笑)」

家の目の前がスキー場。愛猫とパートナーと暮らす
新幹線が止まり、1時間圏内に7〜8か所のスキー場がある飯山に家を建て始めたのは、2019年5月のこと。だから松の杜は1年目から、梨沙さんがいなくても回る形を少しずつ整えてきました。2020年に移住してからは、月に一度ほど鵠沼に通い、この家を見守っています。
コロナ禍でも、一度も休むことはありませんでした。スタジオが使えなくなったヨガ講師たちが集まり、一時は7〜9人がここでヨガ教室を開いていたほど。いまでは「使われない日を数えた方が早い」くらい、毎日のように誰かがこの家にいます。

庭でのヨガ

和室でのコンサート
祖母の代から続いているものもあります。月に一度のお庭清掃です。当時は会の決まったおじいちゃんたち3〜5人が毎月やって来て、掃除のあとは祖母が京樽のお弁当とビールでもてなすのが恒例でした。
「その光景をずっと見てきたので、今もそのまま受け継いでいるんです」
いまでは毎回10人前後が集まり、引っ越してきたばかりの人に、ここで友達ができることもあるそうです。

お庭清掃のあとは、庭のテーブルを囲んで
年2回の「お松フェス」も、人のつながりから生まれました。2022年、この家をアトリエとして借りていた方が、松葉を食べたり飲んだりする活動をしている人たちを紹介してくれたのがきっかけです。和室に集まった5〜6人が松葉ジュースや松クッキーを囲んで盛り上がり、「ここは松に守られた空間だ」と、その流れでイベントを開くことになったのだとか。

全国から松好きが集まる松の祭典「お松フェス」
「一時期は本当に荒れていたんです。でも、残そうと言ってたくさんの人が手を貸してくれて、綺麗にして開いたら、どんどん良い気が流れるようになった。人も、空気も。本当に、人が人を呼んでくれるんです」

庭がにぎわうイベントの日
「残してくれて、ありがとう」
いちばん心に残っている出来事を尋ねると、梨沙さんは、祖父より前にこの家に住んでいた家族とのご縁を挙げてくれました。
ある日、東京に住む92歳の男性が鵠沼を散歩していて、子どもの頃に暮らした家がまだ残っていることに気づき、藤沢市に問い合わせたのです。市から連絡を受けた梨沙さんは、娘さんとやりとりをして、男性を家に招きました。
男性がここで過ごしたのは、子ども時代のほんの数年。それでも家に入ると、「ここにはこれがあってね」と、梨沙さんも知らなかった昔の様子を次々に話してくれたといいます。その後も3〜4回、訪ねてきてくれました。
「とても感激してくださって、『本当に残してくれてありがとう』と。すごく嬉しかったですね。ああ、残してよかったって」

取材の日も、庭ではイベントが開かれていました
この家は2028年に、築100年を迎えます。けれど屋根や外壁の傷みは限界に近く、ここ数年は傷んだところだけを直す応急処置でしのいできました。いざ大規模修繕の見積もりを取ってみると、最初に出てきた額は4500万円。
「家が一軒建てられるじゃない、って思いました(笑)」
工事の範囲を見直して、約3000万円に。そのうちフランス瓦の葺き替え費の一部を募るため、2026年10月13日から11月30日まで、クラウドファンディングに挑戦しています。100周年に合わせて、梨沙さんはこの家の物語を一冊の本にまとめるつもりです。
「古い建物を親から受け継いで、どうしたらいいかわからずにいる人は多いんです。私も知識はまったくなかったけれど、やってみたらこうなった、という体験を残しておけば、誰かのヒントになるかもしれません」

洋館の屋根を覆うフランス瓦は今にも崩れ落ちそう
この先のことを尋ねると、梨沙さんは笑いながら素直に答えてくれました。
「よく聞かれるんですけど、実は100周年の先はあまり考えていないんです。いつもその場その場で生きてきたので(笑)。ただ、いつか私ではない誰かの手に渡ることがあったとしても、どんな形であれ、この家が残っていてくれたらいい。そのための修繕なんです」

インタビューを終えて
筆者がこの家で暮らしていた部屋は、かつてお父さまの荷物で埋まり、雨漏りで天井がまるごと落ちてきた部屋だったそうです。取材の途中、「自分はここに住んでいたんだなあ」とつぶやくと、梨沙さんは「今も住んでいるような気が一瞬するよね」と笑っていました。
残すと決めた人がいて、手を貸す人がいて、毎日ここに通ってくる人がいる。100年目を迎えようとしている家は、今日も誰かのために開かれています。
レッスンやイベント、月に一度のお庭清掃など、きっかけはさまざま。鵠沼を歩くときは、ぜひ訪ねてみてください。
■ 松の杜くげぬま(国登録有形文化財 尾日向家住宅)
住所:神奈川県藤沢市鵠沼松が岡1-6-31
公式サイト:http://matsunomorikugenuma.com/
Instagram:@matsunomori_kugenuma
クラウドファンディング(2026年11月30日まで):https://readyfor.jp/projects/matsunomori-100
この記事を書いた人

栗原 恵介
Locomo発起人。
湘南生まれ湘南育ち(鵠沼中→湘南高)
インタビューって面白い。
人の想いやストーリーを聞ける貴重な機会。
なるべくありのまま届けられるように記事を書いています。



